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夏過ぎて ようやくめどのたつ馬の 耳にひびくは すずむしのこえ [展 心 徒 然 草]

  夏の間たたき続けた馬をようやく打ち終えた。

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一般に鉄は硬いとか冷たいとか思われていることが多いが、叩けば叩くほどそのやわらかさとぬくもりに取り憑かれてしまう。

映像では伝えようのない艶めかしさがそこにはある。思わず触れてみたくなるその肌の張りは、たたき上げた鉄板一枚の緊張感で成り立っている。機会があれば、塑像による原型を鋳造したものや、直接素材を彫刻したものと是非比べてみて頂きたいものだ。

 

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カタカムナなぼやき [展 心 徒 然 草]

万物の霊長じろ.jpg

「万物の霊長」とは孔子によって編纂されたともいう中国の歴史書「書経」に記された人類の釈名であるらしい。人類は生物学上サル目(霊長類)ヒト科の動物とされており、ヒト・ホモ‐サピエンスとよばれる動物である。しかしながら今日の地上における霊的混乱を見るに、万物の霊長たる人類が、その名に恥じぬ霊的長(おさ)になり得ているのだろうかという疑問を持たずにはいられない。


 さて、生物学上の霊長類という分類だが、もとより自然科学においてはいわゆる「霊」なる存在は確認・証明されてはおらず、霊長という言葉をあてたことに科学的根拠はないともいえる。それでもなお科学者をして霊長という言葉を選択させた根拠を探ることは無意味ではないと思われる。それどころか、霊性に関するはっきりした認識の確立こそ、混迷する現代人間社会の切り札になると直観する。
 

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よこたわる 骸に冷たき 春の雪 [展 心 徒 然 草]

政令指定都市相模原にみる蛮行

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 この作品に見覚えのある方もおありだろうが、かれこれ8年ほど前に、JR相模湖駅前のロータリーに設置された神奈川県立相模湖交流センターというの公共施設のイベント情報掲示板であった。

相模湖交流センターは県立の施設ではあるが、開設当時は県の職員とともに旧相模湖町が管理運営しており、私が制作依頼を受けた当時、町職員の榎本館長が制作指揮を執って、同じ町内在住の親友でもあるイギリス人彫刻家、スティーブン・プール氏とのコラボレーションによって完成した作品であった。

3540777.jpgこの写真は完成直後のものだが、その完成に至る長い道のりは、我々作り手にとって紛れもない人生の一こまでもある。

公共事業における制作にもいろいろあるが、この制作ほど自由にさせてもらえることは、きわめて稀だといえる。そこにはもちろんそれなりの事情があるわけで、この仕事に限っていえば、予算がないということであった。ことの顛末からして内情を明かさずにはおれないので申し上げるが、この仕事の制作費はデザイン・設計・制作・設置工事すべて込みで40万円であった。それを二人で20万円ずつとして、木部をスティーブ、金属部を僕が制作し、僕の工房で合体整形して二人で現場に設置したものである。

世間一般の常識では、予算の折り合いがつかない仕事というものは 成り立たないものだが、少なくとも僕とスティーブにとっては事情が違う。自らの働きが、環境や社会にとっての利益となりうる価値の創造につながる、と確信 できさえすれば、存分に働くことができるのだ。そのための付加価値を高めるために、常日頃の自らの生活はプログラムされているといって間違いない。これは 非常に深淵なる人生観の問題でもある。つまり哲学なのだ。

およそ人生において、哲学的指向性をも容認しうる友との出会いなどというものは、あり得ないだろう。と僕は思い続けて生きてきた。 ある意味孤独な青年時代であった自分の生活圏に、彼の存在があった。

はじめの頃は仕事を依頼してコラボレーションする関係でしかなかったが、生き様を知るにつけ、深く共生感を持つに至った。そんな彼と、存分にコラボレーションできた記念すべき作品が、この掲示板だったのだ。

 この作品のコンセプトは自然さを伴った修景物としての自立性である。相模湖町内では一番の繁華街にある駅前ロータリーに、天然自然のダイナミズムを添えることによる 自然さの添景効果をもたらすものであった。

それが、ある日突然根元から切り倒されてしまったのである。

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 しかも発見したのは全くの偶然で、スティーブが駅に娘を送りに行ったときに現場に出くわしてことを知ったのだった。

彼は直ちに知人に情報を求め、知人から市会議員を通して管轄部署へ撤去差し止めの申し入れをしてもらったのだが、すでに後の祭りであった。

 羽 鉄スティーブ.jpg平成の大合併にのって相模原市になった相模湖町のこの蛮行に対して、4歳の時にメンテナンスをスティーブとともに行った息子の羽 鉄は、「なんでそんな残酷なことするの・・・」とつぶやいた。9歳の子供でもわかることがわからないような館長に文化施設を取り仕切らせる相模原市の文化行政を、なんとしたものか。

 


 

 

2005年メンテナンス時のスティーブと羽 鉄


堰き止めし 地脈の末の 電気かな [展 心 徒 然 草]

相模ダム建設殉職者合同追悼会に向けての思い

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 例年ボランティアとして関わっている追悼会の季節がやってきた。昨年の第32回ポスターから私が担当しているが、今年はダムサイト自体の写真を使いたいと思っている。

使用している写真は発電機建屋内のメンテナンス工事に施工要員として参加した際に私自身が撮影したものだが、発電所施設内から撮ったものだ。そのときの工事の際に立ち入った建屋内に、かつて使われていた発電機に張られていた真鍮製の銘板が額装されて掲示してあった。

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 上段の黄色味がかった銘板が相模ダム完成当初の発電機に張られていたものだが、製造年月の表記を見ると ”皇紀2607年3月””皇紀2604年12月” と見える。

 ほーーっと驚く中高年の読者にはなじみもあろうが、なにそれっ?という若年層には若干説明が必要だろう。

 そもそも皇紀とは、神武天皇即位紀元といい、初代天皇である神武天皇が即位したとされている年(西洋紀元前660年)を元年(紀元)として計算する、日本独自の紀年法なのである。

 そこで銘板の製造会社を見てほしい。発電機自体は三菱電機。水車は三菱重工となっている。つまりこの発電所のシステムは、三菱製だということなのだが、建設当時日本は大東亜戦争と呼ばれた太平洋戦争の戦時下だった。太平洋戦争といえば、零戦が有名だが、この零戦を造っていたのも三菱だった。そして三菱といえば、岩崎弥太郎であり、明治維新からの大日本帝国軍産複合体として、今日の日本国の礎を築いてきた立役者ともいえるだろう。当時の日本の軍用機の命名には、採用年次の皇紀下2桁を型式に冠する規定があった。零戦の「零式」という名称は、制式採用された1940年(昭和15年)が皇紀2600年にあたり、その下2桁が ”00” であったためである。

 額装.JPGところで、相模ダムが完成したのはすでに敗戦後のことであった。この銘板に表記された皇紀2604年と2608年は、西暦でいうと1944年と1948年に当たる。終戦が1945年だから、1948年は、すでに戦後である。その戦後に完成した発電機にあえて皇紀表示をするあたりが、いかにも三菱らしいと思うわけで、大日本帝国の発展と大東亜共栄圏の実現をものつくりで支えてきたという技術者たちの こだわりを感じる。そして老朽化して解体撤去した設備の銘板を額装して掲示する官界の精神的背景にまで思いをいたすとき、明治維新以来脈々と続く国体の命脈が、現在も生き続けているのだと思えるのである。

 

 つまり、黒船の到来から日本の指導者層が抱き続けた近代化への方向性、迅速なる西洋的近代化によって日本的世界国家を実現するという野望である。この野望達成の一環として相模湖はこの地に造られたのであり、それ故に貴重な自然と尊い人命さえも犠牲となったわけで、その当時の文明的方法論は、平和憲法の制定や民主主義的国家整備などによっても何ら変わってはいない、軍備の質が、戦闘部隊から生産部隊へとシフトしたと見るべきなのである。

 今回の震災と東電福島の事故であからさまに露見している、日本の政・官・財利権構造のおぞましさと、おそらく縄文時代以来一貫した日本列島の一般民衆の朴訥 さとの間のあまりにもの温度差を見るとき、かつて大和朝廷が征夷大将軍を任命して蝦夷を迫害・懐柔し、西洋列強の帝国主義的支配に世界のネイティビティーが屈服・ 壊滅し、蓄えられた奴隷利得が蒸気機関・原子力に取って代わり今日に至る支配・被支配の相似相に、身の縮む思いを禁じ得ないのは私だけでは無かろう。これはいずれの政党の誰が政権を担っていようと関係のない、日本の権力構造の根本的地脈でもある。

 そこで追悼会ということなのだが、犠牲者の冥福を祈り平和と友好を祈念するという行為の継続に、もちろん異議を唱えるものではない。しかし、国家としての根本的理念の実現へ向けた具体的方法論と、その質の検証に踏み込むことなくして、貴い犠牲の上に建つこのダムが、多くの犠牲者や自然環境の負荷を乗り越えて人類と地球自然に通底する未来のため役立つ日は、永遠に訪れはしないだろう。そしてこのこと抜きにしては、真の追悼もまた ないと思うのである。

 

 

 


悲運の案内看板のそれから [展 心 徒 然 草]

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この3月末に、相模原市当局の全く不可解な判断によって無惨にも切り倒された相模湖駅前の案内看板について以前に書いた。その案内看板再建について動きがあった。

相模原市の財政改革の一貫として、市内公共施設の民間への管理委託が進められていたが、相模湖交流センターもこの4月から、民間企業が指定管理者となった。

そもそも案内看板は相模湖交流センターが発注設置したもので、交流センターの予算で決済されたものだ。つまり、交流センターの資産であったわけだが、相模原市職員である前館長の判断で、昨年度末に15万円の解体撤去処分費用をかけて駅前から姿を消し去られた。その後前館長の了承を得た上で、僕が作業を請け負った業者からもらい受けたかたちになっている。

4月から指定管理者になった企業が配属した新館長と副館長は、管理運営上駅前に案内看板が必要と判断したが、なにぶん予算がない。そこで僕とスティーブに話が回ってきた。

 あの看板を同じ場所に立てるのに費用はどのくらいかかるのか、というのである。全く同じ場所ならば、下の基礎もそのまま利用できるので、さして費用はかからない。作品の再建を希望する僕らにとっては渡りに船とも思えたが、撤去のいきさつや背景、役所の体質を考えるとそう簡単にいくとも思えなかったので、すぐに修復する気にはなれなかった。なかなか煮え切らない僕の態度に、新館長は市当局の責任者に直接あの看板の再建を希望した、と語った。そしてついに、指定管理者である企業が、自己負担で案内板を設置することに関して了承を得たという話になった。実は交流センターは神奈川県の建物なのだ。県としてはかまわないということだった。しかし問題は県ではなく、相模原市、それも相模湖町づくりセンターという名の旧相模湖町なのだ。いずれにしても立てられることに変更はないとの館長の言葉を半信半疑で聞きながらも、不憫な我が子の修復を開始した。
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 溶断で寸断された根本の構造を継ぎ合わせて自立できる状態まで回復させた。

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 バラバラに寸断された根本部分を再構成して仮組みし、柱を据え付けて溶接してゆく。

 

 

 

 

 

はたしてこの不憫な我が子が、相模湖駅前に復活する日はやって来るのだろうか。

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