堰き止めし 地脈の末の 電気かな [展 心 徒 然 草]
相模ダム建設殉職者合同追悼会に向けての思い
例年ボランティアとして関わっている追悼会の季節がやってきた。昨年の第32回ポスターから私が担当しているが、今年はダムサイト自体の写真を使いたいと思っている。
使用している写真は発電機建屋内のメンテナンス工事に施工要員として参加した際に私自身が撮影したものだが、発電所施設内から撮ったものだ。そのときの工事の際に立ち入った建屋内に、かつて使われていた発電機に張られていた真鍮製の銘板が額装されて掲示してあった。
上段の黄色味がかった銘板が相模ダム完成当初の発電機に張られていたものだが、製造年月の表記を見ると ”皇紀2607年3月” と ”皇紀2604年12月” と見える。
ほーーっと驚く中高年の読者にはなじみもあろうが、なにそれっ?という若年層には若干説明が必要だろう。
そもそも皇紀とは、神武天皇即位紀元といい、初代天皇である神武天皇が即位したとされている年(西洋紀元前660年)を元年(紀元)として計算する、日本独自の紀年法なのである。
そこで銘板の製造会社を見てほしい。発電機自体は三菱電機。水車は三菱重工となっている。つまりこの発電所のシステムは、三菱製だということなのだが、建設当時日本は大東亜戦争と呼ばれた太平洋戦争の戦時下だった。太平洋戦争といえば、零戦が有名だが、この零戦を造っていたのも三菱だった。そして三菱といえば、岩崎弥太郎であり、明治維新からの大日本帝国軍産複合体として、今日の日本国の礎を築いてきた立役者ともいえるだろう。当時の日本の軍用機の命名には、採用年次の皇紀下2桁を型式に冠する規定があった。零戦の「零式」という名称は、制式採用された1940年(昭和15年)が皇紀2600年にあたり、その下2桁が ”00” であったためである。
ところで、相模ダムが完成したのはすでに敗戦後のことであった。この銘板に表記された皇紀2604年と2608年は、西暦でいうと1944年と1948年に当たる。終戦が1945年だから、1948年は、すでに戦後である。その戦後に完成した発電機にあえて皇紀表示をするあたりが、いかにも三菱らしいと思うわけで、大日本帝国の発展と大東亜共栄圏の実現をものつくりで支えてきたという技術者たちの こだわりを感じる。そして老朽化して解体撤去した設備の銘板を額装して掲示する官界の精神的背景にまで思いをいたすとき、明治維新以来脈々と続く国体の命脈が、現在も生き続けているのだと思えるのである。
つまり、黒船の到来から日本の指導者層が抱き続けた近代化への方向性、迅速なる西洋的近代化によって日本的世界国家を実現するという野望である。この野望達成の一環として相模湖はこの地に造られたのであり、それ故に貴重な自然と尊い人命さえも犠牲となったわけで、その当時の文明的方法論は、平和憲法の制定や民主主義的国家整備などによっても何ら変わってはいない、軍備の質が、戦闘部隊から生産部隊へとシフトしたと見るべきなのである。
今回の震災と東電福島の事故であからさまに露見している、日本の政・官・財利権構造のおぞましさと、おそらく縄文時代以来一貫した日本列島の一般民衆の朴訥 さとの間のあまりにもの温度差を見るとき、かつて大和朝廷が征夷大将軍を任命して蝦夷を迫害・懐柔し、西洋列強の帝国主義的支配に世界のネイティビティーが屈服・ 壊滅し、蓄えられた奴隷利得が蒸気機関・原子力に取って代わり今日に至る支配・被支配の相似相に、身の縮む思いを禁じ得ないのは私だけでは無かろう。これはいずれの政党の誰が政権を担っていようと関係のない、日本の権力構造の根本的地脈でもある。
そこで追悼会ということなのだが、犠牲者の冥福を祈り平和と友好を祈念するという行為の継続に、もちろん異議を唱えるものではない。しかし、国家としての根本的理念の実現へ向けた具体的方法論と、その質の検証に踏み込むことなくして、貴い犠牲の上に建つこのダムが、多くの犠牲者や自然環境の負荷を乗り越えて人類と地球自然に通底する未来のため役立つ日は、永遠に訪れはしないだろう。そしてこのこと抜きにしては、真の追悼もまた ないと思うのである。
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