オニの面にもなみだ [展 心 徒 然 草]
住まいのある神奈川県相模湖町の関口地区に神田囃子系の囃子連がある。せがれの羽 鉄と共に去年から参加しているのだが、どうしても自分でこしらえた面をかぶって踊りたくてデザインした。今年の夏祭りには間に合わないだろナーー、やっぱり、とほほっ。
でもどりて 今も昔と ひびきあう [展 心 徒 然 草]
20年以上昔、赤坂の宝石商の店舗のために造った鍛鉄ドア。曲面ガラスをはめてあり、センターで約20センチはらんでいる。店は数年でたたまれたが、ドアは紆余曲折して工房に戻ってきた。左上にはまっているステンドグラスは、ブルズアイのガラスを石膏型にてスランピングして立体に組んである。恐ろしく手間がかかった。
順洋丸 [展 心 徒 然 草]
実はうちには ヤマシチ という屋号がある。僕は四代目の跡目を継いだが、そのことを自覚したのは14歳の時で、養母となっていた母方の祖母の葬式に臨んだ朝であった。仙台藩の御用商人で塩問屋・塩長の娘であった祖母は、親の薦めで嫌々ながら医者に嫁ぎ、死に別れて出戻っていたところを、やはり妻に先立たれやもめでいた祖父順之助と縁組みして堀井の家にはいった人であった。3代目の祖父順之助は幕末明治の革命のあおりをうけて商売あがったりになっていた商家ヤマシチの跡目をつぎ、21歳の時に渋沢栄一の所有する山林から岩材の採掘権をゆだねられ、明治政府が仙台に建てた多くの官庁舎の石材を一手に納め、大正末には相当の財をなしたという。この船は大正時代に造られた洋式帆船で、順洋丸と命名された。なんとこの船は貨物船として運行されただけではなく、沖でイワシ漁もして、加工した煮干しも仙台まで出荷していたそうだ。ちなみに母が生まれた屋敷には敷地内に、この船が入る船着き場が作られていた。
建築金物の天国と地獄・・・ [展 心 徒 然 草]
大阪千里の個人邸の門扉とアーチ。門灯のガラスは友人のT 氏制作。門扉は電気錠を仕込んであるため、フレームをフラットバーの鍛造で箱組みして配線してある。
実はこの作品の施工後、依頼主の接待で大変楽しい思いをさせてもらったのだが、その別れ際、高速の入り口までベンツで先導してもらって分かれる寸前に、玉突き4重衝突を起こして自分の車はお釈迦様、お客のベンツも前後がつぶれ、その前2台も軽いとはいえつぶれた。しかも当時アシスタントしてもらってたオーストラリア人が運転してたんだけど、事故っった直後の煙吹いてる車の中で、国際無免許をコクられてまさに地獄を見た。ベンツの修理代だけで480万もかかってどうすんだーーーー!!
アーチは3分割でボルトアップ。現場でユニック吊りして施工した。
エゾシカのスネ骨削りて箒とな [展 心 徒 然 草]
初めて北海道にわたった。たまたま訪れた札幌の地ビールを味わうイベントでエゾシカのバーベキューにありつき、残った骨を持てるだけいただいてその場で薫製にし、宿を借りる知人宅へ持ち帰り、早速使わせていただいた。5時間ほど煮て肉と筋を落とし、髄をくりぬいてから小刀で削り上げる。前足のスネの骨だが、これが片手で握ると何ともしっくりした心地がする。箒の柄にしたい思いが頭を巡ってはなれなくなる。車に載せてあった小ボウキをすげて小骨でカシメでき上がったのがこの箒だ。
常に載せてある手製の刃物だが、これだけあればたいがいのことができる。どれも反りがはいっている。真ん中が槍がんな。刃渡りは5センチほどだ。その両脇が左右の反り小刀。これが非常に役に立つ。
反りの具合はこんな感じ。