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展心に問ふ その一 [展心に問ふ]

   展心に問ふ・・・対談・カタカムナの可能性
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堀井健次郎
「本日から、カタカムナの可能性というテーマで展心さんと対談してまいりたいと思います。時間的制約は一切ございませんので、余命続く限り、とことんお話を伺いたいと思っておりますので、よろしくお願い致します。」
展心
「こちらこそどうぞよろしく。」
健次郎
「まず確認しておかなければならないことは、この対談はカタカムナの可能性というテーマになっておりますが、この可能性という言葉は、どのように解釈したらよろしいのでしょうか?」
展心
「いわゆる、人間社会で生活なさっておられる健次郎さんとお話しするわけですから、現在人間社会が置かれている状況、これは外的要因によって、つまり自然環境によってそうなっているということではなく、人間総体の自己責任によってこうなっている状況に対して、カタカムナの知見がどのような役割を担えるか、ということになりましょうね。」
健次郎
「なるほど、そうしますとこれは人間社会の改善に向けての可能性・ととらえてよろしいのでしょうか。」
展心
「いや、残念ながら一概にそうとは言い切れるものではありません。人間社会というのは自然界においては非常に特殊な存在でありまして、人間の価値基準によってしか善悪という概念が規定されないわけです。これはどういうことかといえば、人間が必要と認めたモノしかその価値を認めないということです。とりわけ問題視されることは人間以外の生命現象に生存する権利というモノを認めていない。これは人間社会の抱える最も大きな霊的欠陥といえるでしょうね。その意味からして、全人類と地球自然の和解のためととらえるべきかと思います。」
健次郎
「地球自然との和解、生命現象に生存する権利を認めるというのはどのようなことでしょう。」
展心
「カタカムナ的には生命現象の個別性といったもの、つまり、動物であるとか植物であるとか鉱物であるとかは、発生時の環境条件・トキトコロに応じて秩序的に構造されるカタチサキといいますが、これら全てがヒトと呼ばれます。」
健次郎
「なるほど、ヒトというのが人間を指す言葉ではないということは私も23歳の時に知りました。もっとも当時はまだカタカムナの存在を知りませんでしたが。」
展心
「その通りです。日本語としても明治になるまでは人間という文言はヒトのこととしては使われておらなかったんですね。最初の国語辞典である大言海にも第三義として あやまちてひと と記されています。ヒトというのはヒのトしたもの、ヒというのはアマとカムのムカヒから発生するヤタノカのハシマリです、このヒがトする。つまり重なり合わさり統合するという意味です。」
健次郎
「そうしますと、人間というのはヒトのひとつだということでしょうか。」
展心
「そのとおりです。しかも人間以外のヒトのほうが比較にならないくらい大勢いるわけです。そしてその大多数の人間以外のヒトに何ら法的な権利を認めない法治国家の集まりが現代人間社会ということになりますね。」
健次郎
「人間以外のヒトにも法的権利を認めるべきだとおっしゃるのですね。」
展心
「そのとおりです。」
堀井健次郎
「しかし人間以外のヒトにどんな法的権利を認めればよろしいんでしょうか。」
展心
「まず認めるべきは自然発生権とでも申しましょうか、アリノママに生きる権利ですね。これは環境条件に応じて発生する生命現象の既得権として人類全体で承認する必要があります。世界平和という概念の中に、人類のみの平和的安定のみならず、自然環境の平和的安定も明確に規定することです。これはあらゆる個別の国家単位憲法の最上位におかれるべきで、地球自然全体をヒトツの生命体として認識する法治体系を意味します。」
健次郎
「それが展心さんの提唱する天然憲法というものですね。」
展心
「そうです。天然憲法の内容についてはこの場では詳しく触れませんが、これが成立する前提条件として、カタカムナの果たせる役割は大きいとだけは言っておきましょう。」

つづく


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