かくもうつくし骨なれば いかでたたかでおらりょうか [展 心 徒 然 草]
鉄をたたき始めてまだ間もない頃、骸骨ばかり拵えていた時期があった。もうかれこれ30年も前のことである。 幼い時分から骨はとにかく好きだった。少年時代を過ごした仙台の実家は市街地のはずれに位置していたため、通っていた中学へは山ひとつ越えて往かねばならなかった。そんなある日、下校途中の道草ルートに、一匹の行き倒れの犬が静かに横たわっていた。迷わず僕は、なるべく人目に付かない場所へその犬の亡骸を移動させ、何事もなかったように家へと戻った。そしてそれ以来約3年にわたって、白骨化するまでの様子を断続的に観察し続けた。
自然界で自然死した動植物が自然に還るプロセスは、実に興味深く美しい。思えば僕の自然に対する美的関心は、完成した色彩・形態の観察より、形あるモノがその一生を終え、風化してゆくその刹那にのみ見ることができる、様々な階層構造の美しさによってもたらされたのだと言える。言葉をしゃべり始める以前からそのプロセスに非常に関心があったことを覚えている。はじめは目にするあらゆるモノが観察対象だったが、そのうち小動物の屍骸が見せる長期間にわたる劇的変様が僕をトリコにする。ウジがわき虫に喰われ、風に吹かれて雨に打たれ、陽にさらされ、霜にあたって凍てつき、雪にうずまりふたたびすがたをあらわす。季節の移ろいはまさに劇的展開を見せてくれた。そしてついに、あまりにも美しい骨がその終幕を飾るのであった。いつしか僕の人生には骨とめぐり逢うよろこびが定着していた。
そんなわけで鉄をたたくという表現手段を得た僕はとにかく骨をつくりまくったのだった。
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